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沿革

I. 日本俳優協会前史

日本俳優協会の前身は、明治・大正・昭和にわたり活動した日本俳優組合です。
この組織は、明治22年(1889)に設立された「東京俳優組合」にはじまり、その後「大日本俳優組合」「大日本俳優協会」など名称は何度か変わっていますが、昭和21年(1946)まで半世紀を超える歳月を、一貫してプロの俳優の組織として、激動するわが国の近代史の中で活動してきました。

I-1. 明治期-東京俳優組合の誕生から大日本俳優協会への発展まで

【俳優組合の誕生-明治22年】

日本の演劇界にはじめて俳優の「公的な」組織が生れたのは明治22年(1889)2月。東京府の「俳優納税を取り扱うべき」という命令によって「東京俳優組合」が誕生したのです。つまり出発点は、俳優から「俳優税」と言われた営業税を徴収するための「俳優鑑札」を取り扱う組織だったわけです。江戸時代には、役者は差別されていた反面、納税の義務はありませんでした。明治の近代化で「四民平等」になり、はじめて納税の義務も生じたのです。
すでにこの前年に九代目市川團十郎は一門を集めて「三升会」という組織をつくっていましたが、東京の全俳優を傘下におさめた組織はまだありませんでした。
ちなみにこの二週間あとには、わが国初の憲法が発布され、11月には歌舞伎座が東京に初めて開場しています。
この組合は、投票により頭取に團十郎、副頭取に菊五郎、左團次という、明治の「團菊左」と謳われた三人が就任しました。2月16日に各劇場主、在東京の全俳優が新富座に集まり、組合規約と等級が定められました。その当時の等級は、
〔一等〕
九代目團十郎、五代目尾上菊五郎、初代市川左團次、四代目中村芝翫。
〔二等〕
中村福助(二代目梅玉)、中村福助(五代目歌右衛門)、坂東家橘、五代目市川小団次、四代目澤村源之助、二代目坂東秀調、尾上松助、中村時蔵(三代目歌六)などなど・・・
その後頭取には、五代目菊五郎、初代左團次、市川権十郎、片岡市蔵らが選任されています。
明治30年当時の所属会員は、歌舞伎のみならず、新派から操り人形師なども参加して、総勢1248名という大世帯。組合運営は大劇場と小劇場、それぞれに所属する俳優間の問題など多難でしたが、紆余曲折を経ながら、次第に納税のためだけでなく、俳優自身のための団体としての性格も備えていきました。

【団菊の死―明治36年】

明治36年4月には日本橋倶楽部で総会が開かれ、改正規約を原案通り可決。組合の目的は

  1. 一、俳優の技芸を高潔ならしむ事
  2. 二、俳優の技芸を発達せしむる事
  3. 三、旧慣格式ある芸名を檀称せしめぬ事
  4. 四、俳優の等級を公平に査定する事

とあります。

この年2月には五代目菊五郎が、9月には「劇聖」と謳われた九代目團十郎が亡くなりました。波瀾の激動期、幕末から明治へと歌舞伎の近代化を支えた巨星が逝き、歌舞伎は次代の名優たちに引き継がれます。
明治39年の役員の顔ぶれは以下の通り。

明治42年11月4日伊藤博文の国葬当日、都新聞社前で撮影。五代目福助を抱いた五代目歌右衛門を中央に、六代目梅幸、七代目幸四郎、十五代目羽左衛門、六代目菊五郎、初代吉右衛門ら、團菊左以後の歌舞伎界を担う名優たちが顔を揃えた珍しい写真。

頭取 中村芝翫(のち五代目歌右衛門)
副頭取 尾上梅幸(六代目)
評議員長 市川中車(七代目)
評議員 澤村訥子(七代目)、市村羽左衛門(十五代目)、市川左團次(二代目)、市川高麗蔵(七代目幸四郎)、澤村宗十郎(七代目)、市川猿之助(二代目段四郎)、 市川小団次(五代目)

【「大日本俳優協会」へ―五世中村歌右衛門、会長となる―明治40年】

明治40年12月、東京新派俳優組合が組織され、歌舞伎と新派が一時分離。しかし42年には歌舞伎・準歌舞伎の俳優による「大日本俳優協会」に発展し、合流の第一歩となりました。

五代目中村歌右衛門

会長 中村歌右衛門(五代目)
副会長 市村羽左衛門(十五代目)
理事長 松本幸四郎(七代目)
専務理事 坂東彦三郎(六代目)

I-2. 大正から昭和初期へ 発展統一への歩み

【「東京俳優組合演芸会」】

大正4年(1915)12月22日から三日間、「東京俳優組合演芸会」つまり現在の「俳優祭」の前身ともいえる催しが歌舞伎座で初めて行われました。  内容は、第一に名題試験の一般公開。歌舞伎座一杯のお客様を前に受験する若手俳優の緊張ぶりは、どんなだったでしょう。つづく演目は『絵本太功記』十段目と『源氏店』。そして幹部総出演の喜劇『縁は異なもの』(井出蕉雨作)―ロクに稽古も出来ず台詞も覚えずメチャメチャの舞台だったといいますが、それでもせりふにつまったり吹き出したりの名優たちの素顔の愛嬌に客席は大喜びだったのでは?こういう点は昔も今も変りませんね。大切りに男寅・丑之助・児太郎・竹松ら子役の踊りが付きました。のちの三代目左團次、七代目栄三郎、五代目福助、十六代目羽左衛門たちです。

【演劇図書館と梨園倶楽部】

大正10年9月、歌右衛門会長の主唱で、木挽町に演劇図書館及び、三原橋東詰に梨園倶楽部が設立されました。当時の協会の発展はめざましいものがあり、協会員全員出演の演劇会が歌舞伎座で毎年催され、名題試験は最も厳格を極めたといわれます。
昭和2年12月(26日から3日間)、「東京俳優協会改称記念公演」が持たれました。

  1. 1) 舞踊『東下り』
    大谷広太郎〈現雀右衛門〉の業平ほか、亀三郎〈十七代目羽左衛門〉、宗之助、十蔵〈五代目市蔵〉、児太郎〈六代目歌右衛門〉、又五郎ら少年俳優たち。
  2. 2) 『岩戸のだんまり』
    三升の景清、九蔵〈八代目團蔵〉の北條時政、新十郎の和田義盛、竹三郎〈四代目菊次郎〉の娘朝日、八代目訥子の愛甲三郎、多賀之丞の衣笠、源之助の畠山重忠、六代目友右衛門の江間小四郎ほか。
  3. 3) 『橋弁慶』
    二代目猿之助〈猿翁〉の弁慶、五代目福助の牛若丸に間狂言が金太郎・純蔵・豊の高麗屋三兄弟(のちの十一代目團十郎・白鸚・松緑)。
  4. 4) 『増補太閤記』は、松居松翁がこの催しのために書き下した新作でした。今川義元を破って凱旋する織田信長、迎える人々、喜びに満ちた御祝儀の一幕で、お寧々と藤吉郎、お寧々の従妹お妙と前田犬千代のラブロマンスをからませた、はなやかな舞台。このときの何よりの話題は、それまでどういうわけか一つ舞台を踏んだことのなかった二人の名優、二代目左團次と六代目菊五郎が顔を合わせたことです。
    左團次の信長、十五代目羽左衛門の藤吉郎、七代目宗十郎の犬千代、七代目幸四郎の柴田勝家、初代吉右衛門の織田信昌、十三代目勘弥の中川瀬兵衛、七代目三津五郎の池田信輝、六代目彦三郎の丹羽長秀、七代目中車の藤井又左衛門、六代目菊五郎の伜又太郎、五代目歌右衛門のその妹お寧々、六代目梅幸のお妙、三代目秀調・二代目松蔦の腰元、幕切れに出る名古屋山三・出雲の阿国が寿美蔵(寿海)、芝鶴という豪華な顔揃い。綺羅星の如き名優たちが一同に会する舞台の素晴しさは、まさに圧巻の一言―、左團次と六代目は、その後も共演は実現しませんでしたから、たった一度の顔合せとして特筆される舞台です。
  5. 5) 「乗合船」(菊五郎の万歳、三津五郎の才造、勘弥の大工、幸蔵の通人、男女蔵〈三代目左團次〉の白酒売、八十助〈八代目三津五郎〉・米吉〈十七代目勘三郎〉の芸者、市村亀蔵の門礼者、家橘〈十六代目羽左衛門〉の角兵衛獅子、しうか〈十四代目勘弥〉の舟頭)
    この「乗合船」も“近頃の面白さ”という評が残っています。

協会は劇界の統一を目的に、第一部〈歌舞伎〉、第二部〈新派〉と組織され、伊井蓉峰、河合武雄、喜多村緑郎が役員に選ばれましたが、昭和4年には更に女子部を新設して舞台女優の統一を図ることになりました。当時の会員として、森律子、村田嘉久子、河村菊江、初代水谷八重子、中村歌扇、藤間房子、初瀬浪子ら帝劇女優から女役者まで44名が名を連ねました。

【困難な時代の中で ― 専務理事・坂東彦三郎、奮戦す】

昭和5年、協会で役員改選が行われ、長年会長を務めていた歌右衛門が名誉顧問となり、梅幸会長、中車副会長、羽左衛門理事長、新役員に左團次、菊五郎、吉右衛門、三津五郎らが就任しました。この年、六代目菊五郎が日本俳優学校を創設。
折からの不況で俳優の給金二割減、劇場側も不入りで入場料を値下げするなど、劇界も大わらわ。協会では下級俳優への貸付金制度を始めたほどで、また協会内に協和会という組織を設け、会員のための購売組合としての活動も始まりました。日用品はもちろん葬儀まで便宜を計ったといいます。物品の月賦購入などは役者の恥だと思うような雰囲気の中、担当役員の坂東彦三郎は「本業の役者より多忙」と嘆いており、不況で公演数も減ったため俳優も協会も火の車、梅幸会長も、「協会でも全部在金は貸出してしまって、今はどうすることもできなくなりました。貸した金は一文も返って来ず、消費組合で仕入れた借りは返済せねばならず、借金する有様です。十間間口の店をひろげていたものが、不景気になったからといって急に三間間口に狭めるわけにもいかず、矢張り苦しいながらも、そのまま暖簾を張って置かなきゃなりませんから」と苦しい台所事情を「演芸画報」に吐露しています。困難な中での専務理事・坂東彦三郎による福利増進のための努力は、並大抵ではなかったようです。当時は協会事務所も下谷区根岸の彦三郎邸にあり、不況で生活の苦しい下級俳優を協会の力で何とか助けんとする彦三郎の奮闘は大へんなものでした。

【「俳優名鑑」の刊行】

昭和6年(1931)に大日本俳優協会から発行された「俳優名鑑」。

昭和6年、「俳優名鑑」を刊行。瀟洒な和綴の名鑑で、歌右衛門・梅幸ら一等俳優から七等俳優、河合・喜多村ら新派、水谷八重子・森律子ら女優まで、主だったところは顔写真・本名・屋号・住所・芸歴等の資料、家紋まで入れ、会員すべての住所、その上樺太から台湾まで日本全国の劇場・演芸館の総覧が付くという力作です。当時、これだけの資料をまとめるのは大変なことであったと察せられます。

I-3. 昭和10年代から敗戦による解散まで

【しのびよる戦争の影ー昭和10年代】

昭和10年1月、梅幸の死去に伴い、急拠、歌舞伎座の羽左衛門の楽屋で理事会が召集され、役員改選。会長に歌右衛門が復帰し、副会長に羽左衛門、理事長に幸四郎、専務理事に三升、理事に宗十郎、左團次、菊五郎、吉右衛門、三津五郎、彦三郎、友右衛門、喜多村、河合、花柳章太郎、監事に猿之助が就任。
7月、新劇・喜劇・レビュー等の舞台出演者を包含した「東京技芸者協会」が設立されました。当時の総会員数は3600名余に上るといわれます。
昭和11年12月末、歌舞伎座で主催「演芸会」開催。
『落人』は家橘(十六代目羽左衛門)の勘平、菊之助(七代目梅幸)のおかる、松緑の伴内に花四天が羽左衛門、宗十郎、三津五郎、仁左衛門、友右衛門、彦三郎、菊五郎ら大幹部が勢揃いのご馳走。二人が花道を入ると花四天が並んで挨拶、そして伴内が幕を引くという趣向のこの舞台、大変な好評で翌年1月の歌舞伎座で同じ配役で上演されました。
昭和13年5月歌舞伎座で、都新聞・大日本俳優協会主催「演芸会」開催。

5月27日

  1. 1) 二宮紀子作『曇り日」(市川紅梅〈翠扇〉、森赫子、水谷桂子、鈴木光枝)
  2. 2) 吉田絃二郎作『聯隊旗」(二代目左團次、寿美蔵、莚升)
  3. 3) 『名橘誉石切』(十五代目羽左衛門の梶原、七代目幸四郎の大庭、六代目友右衛門の六郎太夫、家橘の梢)
  4. 4) 『保名』(六代目菊五郎)
  5. 5) 『鏡山』奥庭(十二代目仁左衛門の岩藤、七代目宗十郎のお初)
  6. 6) 『仮名手本忠臣蔵』両国橋引揚(七代目幸四郎の大星、十五代目羽左衛門の服部一郎)

昭和10年(1935)頃の大日本俳優協会結成式。前列向かって右より、二代目猿之助(猿翁)、七代目三津五郎、七代目幸四郎、十五代目羽左衛門、六代目菊五郎、初代吉右衛門、二列目右より、二代目河原崎権十郎、不二洋子、水谷八重子、森律子、村田嘉久子、柳永二郎、曽我廼家五郎ら。三列目右より、三代目左團次、十二代目仁左衛門、六代目歌右衛門、伊志井寛、二代目左升、榎本健一(エノケン)、古川緑波(ロッパ)、東靖夫、(一人おいて)田谷力三、八代目訥子、最後列右より、一人おいて尾上鯉三郎、市川荒次郎、三代目中村時蔵、初代中村吉之丞、五代目市川新之助、(一人おいて)十七代目羽左衛門。

同28日

昼の部は『三社祭」(二代目猿之助・段四郎父子)、曽我廼家五郎の『帆影』ほか。夜の部では川村花菱作『三日の客』(喜多村緑郎、河合武雄、大矢市次郎ら新派)など。29日まで三日間、賑やかに上演されました。

【五世歌右衛門の死―戦時体制のもとへ】

昭和15年には、次第に戦時色が濃くなっていきます。歌舞伎とても「国体」の本義を舞台で見せることが責務ということになり、永田衡吉作『敵国降服』、吉田絃二郎作『笠沙高千穂』などが上演されました。六代目菊五郎が『六歌仙』を丸ごと踊りぬく予定が突如禁止されたり、弾圧とまではいかないものの、当局から勧告で俳優サイドの″自粛″が迫られました。恋愛物・情痴物は見られなくなり、色っぽい名せりふもカットされるなど、古典物は少なからず時局を反映していったのです。
この年7月、協会は新体制のための改組・拡大を図ります。9月2日、永年会長職を務めた五代目歌右衛門が死去。十五代目羽左衛門が会長に、六代目菊五郎・喜多村緑郎を副会長に改めて10月「大日本俳優協会」が歌舞伎座で結成されました。この総会の模様が「演芸画報」に記されていますが、司会の曽我廼家五郎、議長の二代目猿之助の議事進行ぶりが美事だったとあります。新協会は歌舞伎に限らず、凡そ警視庁管下の俳優すべてが会員に加わりました。
昭和16年3月「日本演劇協会」創立。6月には、戦時体制の統一的な指導育成機閑として「日本移動演劇連盟」結成―歌舞伎も学校の講堂から工場・野外・・・と到る所に出かけて行きました。
9月24日から三日間、協会は飛行機「俳優号」献納のための募金募集の観劇会を浅草国際劇場で開催。羽左衛門会長の挨拶に始まり、『鈴ケ森』(三升の長兵衛、男女蔵〈のち三代目左團次〉の権八)、『夜討曽我狩場曙』(菊五郎の十郎、猿之助の五郎、九朗右衛門の五郎丸)、『船弁慶』(菊五郎の静・知盛、猿之助の弁慶、家橘の義経)、『長脇差試合』(猿之助の浅太郎、八百蔵〈八代目中車〉の権太郎、男女蔵〈三代目左團次〉のあさい)という演目。その「俳優号」の献納式は11月15日羽田飛行場で行われ、羽左衛門が喜びに満ちた顔で挨拶。六代目の三番叟、吉右衛門の翁、三津五郎の千歳で『式三番』が舞われ、門出を祝いました。
戦雲はますます濃くなり、昭和19年3月には歌舞伎座・東京劇場始め全国の主要大劇場は閉鎖を命じられました。

【戦争末期―俳優協会、解散す】

昭和20年5月歌舞伎座・演舞場が空襲で焼失。
この月、永遠の二枚目役者、会長職にあった十五代目羽左衛門が湯田中で歿しました。
8月15日終戦。翌21年4月に総会が開かれ、終戦の混乱の中で「大日本俳優協会」は解散を決定しました。

II. 戦後昭和編

日本俳優協会が再建されたのは昭和32年(1957)3月。初代会長は市川猿翁。その二年後には社団法人の認可を受け、二代目会長となった市川左團次(三代目)のもとで着実に活動を広げていきました。左團次会長死去のあと、中村歌右衛門(六代目)が三代目の会長に就任し、俳優の著作隣接権と肖像権の確立、福利厚生基金の充実、歌舞伎の裏方や演奏家の調査など、芸団協との連携など、積極的な事業の展開をみせていきます。

II-1. 再建への歩み

【再建へ向かって―焼土の中から】

敗戦で解散した日本俳優協会の再建は、七代目幸四郎や三升(十代目團十郎)らの努力にもかかわらず、なかなか実現しませんでした。
昭和24年に入ると、1月に七代目幸四郎が、3月には七代目宗十郎が、7月には六代目菊五郎が相次いで亡くなり、歌舞伎界にとって寂しい年となりました。

【「関西歌舞伎俳優協会」結成される 昭和27年(1952年)】

昭和27年1月、東京のような劇団制が存在しなかった関西で、俳優相互の親睦と技芸の練磨、並びに全体的な芸能文化の向上をはかる目的を掲げて「関西歌舞伎俳優協会」が結成されました。松竹の白井信太郎氏を会長に、阪東寿三郎、市川寿海、林又一郎、中村鴈治郎(二代目)、片岡仁左衛門(十三代目)、中村富十郎(四代目)、坂東簑助(のち八代目三津五郎)ら、当時関西の幹部たちが理事として名を連ねました。

【「俳優協会」再建さる―昭和32年(1957年)】

二代目市川猿之助
(初代市川猿翁)

東京はその五年後の昭和32年1月に、新派の花柳章太郎らの協力を得て、劇界の長老市川猿之助(二代目。のち初代猿翁)が吉右衛門劇団・菊五郎劇団・新派の各劇団総務と意見交換し、再建計画がスタートしました。参加者は、市川猿之助一座・中村吉右衛門劇団・菊五郎劇団、以上の三劇団と、公演を共にする歌舞伎俳優、劇団新派・新国劇の俳優全員。仮事務所が赤坂の猿之助宅に置かれ、2月22日、新橋金田中で「日本俳優協会」再建創立総会が開かれ、役員が決定されました。
理事長 市川猿之助(二代目。のち初代猿翁)
常任理事 市川中車、市川左團次(三代目)、市村羽左衛門(十七代目)、伊志井寛、花柳章太郎、英太郎(初代)、辰巳柳太郎、中村時蔵(三代目)、中村又五郎、中村芝鶴、水谷八重子、守田勘弥
理事 市川段四郎(三代目)、市川紅悔(翠扇)、市川海老蔵(十一代目團十郎)、石山健二郎、花柳喜章、大矢市次郎、尾上梅幸、尾上松緑(二代目)、中村勘三郎(十七代目)、中村歌右衛門(六代目)、松本幸四郎(八代目。のち初代白鸚)、澤村宗十郎(八代目)ほか25名。
監事 市川團蔵(八代目)、市川荒次郎、野村清一郎
顧問 坂東三津五郎(七代目)、喜多村緑郎

3月29日・小石川の椿山荘で結成発会式が、全会員346名一堂に会し、来賓一千名余を迎えて盛大に行われました。

【第1回「俳優祭」開催さる】

7月30日、神宮外苑東京都体育館で第1回「俳優祭」を開催。
歌舞伎・新派・新国劇全俳優総出演の顔合せに熱狂した観客1万人という、戦後初の大イベントは大成功でした。
話題を呼んだのは、『京鹿子娘道成寺』。会場中央に特設した舞台に四方から花道をつけ、八人の花子(歌右衛門(六代目)、梅幸(七代目)、水谷八重子、翠扇、訥升〈八代目宗十郎〉、由次郎〈現田之助〉、芝雀〈四代目時蔵〉、松蔦〈七代目門之助〉)が共演するという絢爛豪華な″道成寺絵巻″が大評判を呼びました。それぞれが登場する度に大歓声。しかし真夏のこと、冷房も現在のようにはいきません、ふき出す汗がポタリポタリと、見ていて気の毒になったとも。その他、『橋弁慶』(猿之助、左團次)『阿波狸』(勘三郎、勘弥、又五郎)『連獅子』(中車、段四郎、羽左衛門、福助)『切られお富』(時蔵)『鈴ケ森』(海老蔵)など名場面をアレンジした北條秀司作・演出『百鬼夜行』。珍しい顔合せ、豪華で気楽な催し、言わば歌舞伎のカーニバルの第1回は、大好評に終わりました。
以後、この「俳優祭」は俳優とファンとの暖かい交流の場として、毎年吉例の楽しい集いが続いているのです。
10月には社団法人に発展させるための準備が始められました。

【「関西歌舞伎俳優協会」と合流 昭和33年(1958年)】

昭和33年2月に「関西歌舞伎俳優協会」(会員64名)が合流し「日本俳優協会関西支部」とする方針を内定。日本俳優協会事務所が東京都中央区銀座の瓦斯ビル6階に移転。

【第2回「俳優祭」】

第2回「俳優祭」は7月29・30日歌舞伎座で開催、初の大劇場公演。
第一の見ものは『勧進帳』を珍しい顔合わせで4組交代で見せたこと。羽左衛門の弁慶・段四郎(三代目)の富樫・友右衛門(現雀右衛門)の義経の組、猿之助・海老蔵・時蔵組、松緑・勘三郎・左團次組・幸四郎・勘弥・福助(現芝翫)組と4組競演の『勧進帳』で、それぞれ演技の違いと当時として珍しい顔合せの魅力はなかなかのみものでした。歌舞伎・新派・新国劇の幹部が大薩摩まで総出演で勤めた『宮島のだんまり』、梅幸の『手習子』、歌右衛門の『年増』、「月三題」と題した新国劇の『宮本武蔵』や花柳・八重子の『鶴八鶴次郎』時蔵・猿翁の『夕顔棚』の他、『曽我の春駒』は、新之助(現團十郎)・米吉(現歌六)・亀治郎(現段四郎)・左近(初代辰之助)・慶三(現秀調)・寿(現家橘)・銀之助(現團蔵)・喜の字(現玉三郎)ら幼き日の当代人気花形たちが大活躍して、ファンを喜ばせました。
この時、40年以上勤続の大部屋俳優――中村成助・中村加之助・尾上音三郎・市川咲十郎・中村又之助・中村秀十郎の6人が功労者として表彰されました。
12月、第1回「歳末助け合い運動協力サイン会」を歌舞伎座・新橋演舞場・東横ホール・大阪新歌舞伎座・京都南座で開催。幹部俳優が色紙にサインして、その売上金がNHK歳末たすけあい運動本部に寄付されました。以後、毎年末の恒例になっています。

II-2. 社団法人認可 ~初代猿翁会長逝去―市川左團次が二代目の会長に就任

【「社団法人」認可、第3回「俳優祭」 昭和34年(1959年)】

3月、戦後(再建)初の第1回名題資格試験を実施、9名を合格と認め、名題適任証を授与。

戦後初めての名題試験。審査員は向かって右から、初代水谷八重子、花柳章太郎、三代目市川左團次、初代猿翁、三代目中村時蔵ら。

5月、文部省から社団法人認可通達。
6月、歌舞伎座別館にて、認可後初の総会。
第3回「俳優祭」が7月29・30日、歌舞伎座で。
丑之助(現菊五郎)、団子(現猿之助)、左近、鶴之助(現富十郎)、訥升ら若手たちのはなやかな『雪月花梨園色彩』、二組交代の『修禅寺物語』(夜叉王=猿翁・島田正吾、桂=八重子、楓=香川桂子・翠扇、春彦=伊志井寛・又五郎、頼家=花柳章太郎、下田五郎=辰巳柳太郎・羽左衛門、金窪=左團次・石山健二郎、僧=團蔵・左團次)、梅幸の『汐汲』、歌右衛門の『廓三番叟』、フィナーレは『滑稽俄地獄珍関』で『滑稽俄安宅新関』を地獄の閻魔の庁に書き替えたもの。人工衛星のミサイル猿(段四郎)など、登場人物も時代を感じさせます。

【「関西俳優協会」を合併―「名優舞踊祭」と「演劇人体育まつり」昭和35年(1960年)】

3月30日、皇孫ご誕生奉祝及び協会創立三周年記念「名優舞踊祭」をサンケイホールで開催。
9月1日、正式に関西俳優協会を合併、関西支部とし支部長は市川寿海理事が兼任。これで全国的組織となりました。

【第4回「俳優祭」】

第4回「俳優祭」は9月27日椿山荘で親睦大園遊会。

【第2回「名優舞踊祭」 昭和36年(1961年)】

3月29日、日本俳優協会東西合併記念の第2回「名優舞踊祭」を東京サンケイホールで開催。歌舞伎・新派の大幹部総出演による舞踊会。
8月29日、東京オリンピック基金募集「納涼演劇人体育まつり」が千駄ヶ谷国立競技場で。
11月1日、大谷米太郎氏より協会旗(花柳章太郎が正倉院御物からデザインした「蝶鳥」)が贈呈されました。

【第5回「俳優祭」 昭和37年(1962年)】

3月29日、東京体育館で第5回「俳優祭」開催。関西から寿海らが参加。意欲作、シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』(猿之助演出で大矢市次郎のシーザー、幸四郎のブルータス、中車のアントニーほか俳優祭ならではの顔合せ)、『道行浮塒鴎』(簑助、延二郎、友右衛門の関西トリオ)、『八犬伝・対牛楼の仇討』(梅幸の毛野、羽左衛門の定包、左團次・勘三郎・松緑の大薩摩)、『狐火』(歌右衛門)に東西の長老、猿翁・寿海が日の神・月の神に扮しての『空中漫談』、最後は紙吹雪の舞う中、『俳優音頭』(舟橋聖一作詞、古賀政男作曲、藤間勘十郎振付)の総踊りになりました。
7月、第2回名題資格試験を実施、6名を合格と認め、名題適任証を授与。

【新たな時代へ―初代理事長猿翁の死―俳団連発足 昭和38年(1963年)】

6月12日、協会理事長、市川猿翁(5月に改名)死去。三代目左團次が二代目理事長に就任。

三代目市川左團次

8月、文部省指導により理事等役員の数を削減し理事長制を廃止、会長制を施行しました。これに伴い、左團次理事長が会長に就任しました。
この頃から著作権法改正の動きに対処して、俳優の無形の演技についての著作権の確立と侵害の防止を主張するため、日本映画俳優協会、日本新劇俳優協会、日本放送芸能家協会等と提携して、運動を展開――この提携から俳優団体連絡会(俳団連)が作られ俳優協会内に事務所を置く。これが後の芸団協(社団法人日本芸能実演家団体協議会)の母胎となりました。

【第6回「俳優祭」と團十郎脱退事件  昭和39年(1964年)】

3月29日、新橋演舞場で第6回「俳優祭」を開催。新派陣による『十種香』(八重子の八重垣姫、花柳章太郎の勝頼、伊志井寛の謙信、翠扇の濡衣)。歌舞伎幹部二組昼夜交替の『対面』(工藤=仁左衛門・寿海、十郎=勘弥・梅幸、五郎=羽左衛門、舞鶴(昼)=梅幸、朝比奈(夜)=延若、少将=訥升、鬼王=團蔵・三津五郎)、新國劇『荒木又右衛門』、歌舞伎・新派・新國劇から十種の道行を混成し俄風にアレンジした『花道行浮名縁結』などの他、義太夫入りの新派大悲劇『不知帰』(松緑の武夫、歌右衛門の浪子)が観客のハンカチをしぼりました。
3月、團十郎(十一代目)が突然俳優協会を脱退し、劇界ばかりでなく世間を驚かせました。理由は協会が親睦団体に甘んじて、俳優の税金対策などの経済的・社会的問題に真剣に取り組もうとしない、というものでした。その言い分自体はもっともと認められるものの、そのための改革を放棄して脱退という方法を選んだことへの疑問は残されたまま、翌年逝去したことは惜しみて余りあるものでした。
6月、第3回名題資格試験を実施、2名を合格と認め、名題適任証を授与。

II-3. 芸団協の設立 ~市川左團次(三代目)会長逝去

【「芸団協」設立 昭和40年(1965年)】

2月、第3回名題資格試験を実施、8名を合格と認め、名題適任証を授与。
4月、「日本俳優協会会報」創刊。
6月28日、第7回「俳優祭」をホテル・ニューオータニで園遊会。縁日・サイン会・写真撮影会など和気あいあいの中で、″仮装行列″やたぬき会『吉原雀』など。
11月、国立劇場、帝国劇場がそれぞれ開場。
12月、日本芸能実演家団体協議会(芸団協)が発足し、日本俳優協会も参加。

【第8回「俳優祭」 昭和41年(1966年)】

1月2日、協会事務所を新橋演舞場別館に移転。
3月29日、第8回「俳優祭」が同じくホテル・ニューオータニで。余興やゲーム、「写真コンクール」などが行われ、一般のファンの手になる傑作が揃い、感心させられました。

【第9回「俳優祭」 昭和42年(1967年)】

3月、第4回名題資格試験を実施、6名を合格と認め、名題適任証を授与。
6月29日ホテル・ニューオータニで第9回「俳優祭」。売切れ続出の模擬店は大賑わい。余興は三津五郎の漫談、鴈治郎・扇雀父子の義太夫、松緑・芦燕の三味線、辰之助・新之助のギターほか和洋合奏の歌謡ショーなど。

【第1回「関西俳優祭」と第10回「俳優祭」 昭和43年(1968年)】

4月28日、第1回「関西俳優祭」が大阪厚生年金会館で行われました。来阪中の梅幸・松縁ら菊五郎劇団に三津五郎、関西から寿海・仁左衛門らが集い、会場は初めてということもあって大変な騒ぎだったとか。舞台は幹部・花形による『勧進帳』の演奏、三之助(菊之助・辰之助・新之助)の『殺陣』など。
8月27日、ホテル・ニューオータニで園遊会形式の第10回「俳優祭」。10周年を迎えた「俳優祭」では雀右衛門・竹之丞(現富十郎)、猿之助らによる元気いっぱいの『かっぽれ』が会場を沸かせました。

【第11回「俳優祭」 昭和44年(1969年)】

六代目中村歌右衛門

4月、第5回名題資格試験を実施、16名を合格と認め、名題適任証を授与。
6月3日、東京宝塚劇場で第11回「俳優祭」。殺陣『銭形平次』(大川橋蔵、草笛光子)、『稽古場風景』は顔寄せ・本読み・附立ちと、梅幸・羽左衛門の前で若手俳優が『忠臣蔵』大序の指導を受けたり、孝夫・玉三郎らが八重之助指導の「だんまり」の稽古を見せたりの珍しい企画。『深川くずし』(勘弥、山本富士子)、『道中双六』(歌右衛門、芝翫、延若ら)、鴈治郎の太夫・仁左衛門の太棹で『妹背山』山の段の熱演など。フィナーレは『白浪五人男』(八重子の弁天、翠扇の駄右衛門、英つや子の忠信、久里子の赤星、藤間紫(昼)・光本幸子(夜)の南郷に、左團次、鴈治郎、梅幸、勘三郎、三津五郎、勘弥、仁左衛門ら大幹部総出演の黒四天の豪華版でした)。
10月3日、左團次会長が死去し、歌右衛門が会長代行に就任。

II-4. 歌右衛門(六代目)会長に就任 ~俳優の著作隣接権の確立へ

【第12回「俳優祭」 昭和45年(1970年)】

3月29日、第12回「俳優祭」が歌舞伎座で開催され、歌舞伎界最高の大顔合せ『乗合船』が話題の的でした。

【出演者交通費支給制度発足―新「著作権法」スタート 昭和46年(1971年)】

1月、松竹と交渉していた低額所得俳優への交通費支給協定が結ばれ実施、国立劇場もこれにならうことになりました。  同月、永年運動を続けていた新「著作権法」が施行され、俳優の著作隣接権が明文化されました。
2月、本協会はじめ、放送芸能家協会、能楽協会、新劇俳優協会、映画俳優協会、人形浄瑠璃文楽座など、俳優関係10団体が結集して俳優の活動条件の改善を目指す日本俳優連合が発足。(※現在の日本俳優連合は、放送芸能家協会が改組されたもの)

【第13回「俳優祭」 昭和46年(1971年)】

3月29日、第13回「俳優祭」が歌舞伎座で。新派女優陣の『花づくし“手打”』にはじまり、『花道行浮名縁結』を再演。
6月の総会で、会長代行だった中村歌右衛門(六代目)が正式に三代目の会長に選任されました。
6月、第6回名題資格試験を実施。6名が合格し、名題適任証を授与。

【第14回「俳優祭」 昭和47年(1972年)】

4月、国立劇場歌舞伎俳優養成の第一期研修修了生が入会。
5月、芸団協初代会長徳川夢声の死去に伴い、本協会理事の坂東三津五郎(八代目)が芸団協の二代目会長に選任されました。
第14回「俳優祭」は7月28日歌舞伎座で、大顔合せの『修禅寺物語』と『かっぽれ』。

【「芸能人年金」共済制度発足 昭和48年(1973年)】

3月、第7回名題資格試験を実施。6名が合格し、名題適任証を授与。
4月、芸団協の「芸能人年金」共済制度が発足し、芸能人の福祉への歴史的な第一歩となりました。
8月28日、第15回「俳優祭」は豪華客船さるびあ丸で東京湾を一周しながらの「船上パーティ」でした。

【「福利厚生基金」創設と「白雪姫」の上演 昭和49年(1974年)】

菊之助(現菊五郎)、海老蔵(現團十郎)、辰之助(初代)ら、当時まだ二十代の若手俳優を中心とした新しい評議員会が組織され、「俳優祭」の目的を福利厚生基金集めと明確化させ、実行委員会体制をつくり、プランづくりから上演までの全てに積極的にとり組むことになりました。

【第16回「俳優祭」 昭和50年(1975年)】

1月30日、国立劇場で第16回「俳優祭」。あの俳優祭史上に残る不朽の名作『白雪姫』(菊五郎脚本、福助演出、辰之助振付、海老蔵美術)が初演されました。歌右衛門の白雪姫、勘三郎の后・魔法使い、梅幸・松緑・簑助(九代目三津五郎。直前に急死した八代目三津五郎の代役)・芝翫・又五郎・羽左衛門・鴈治郎の七人の童。菊五郎、辰之助、海老蔵・吉右衛門・勘九郎・八十助ら若手花形の動物たち、精四郎(現藤十郎)の鏡の精、仁左衛門の狩人、白鸚の王子・・・。赤姫姿の白雪姫に何とも可愛らしい七人の小人ならぬ童、メルヘンチックな民話劇風舞台に、観客は大喜びでした。
同じ1月29、30日には、南座でも、猿之助・染五郎(現幸四郎)・大川橋蔵らによる「俳優祭舞踊公演」が開催され、さらに1月23日中日劇場でも、公演中の勘弥・玉三郎・孝夫らによる特別公演「初春玉手箱」(天地会『落人』などを上演)が行われました。それぞれ、会員のための福利厚生基金募集の催しで、以後、俳優祭はこの趣旨を明記して続けられています。この基金で、病気により休演中の会員への見舞金や医療費の補助などが図られているのです。
この年の1月16日に八代目三津五郎がフグ中毒で急逝。芸団協は5月の総会で第三代会長に本協会々長の歌右衛門を選出。以後、兼任で平成7年まで長期にわたり、芸団協会長として活躍することになります。  4月、第8回名題資格試験を実施、4名を合格と認め、名題適任証を授与。

【第17回「俳優祭」 昭和51年(1976年)】

3月、途絶していた「日本俳優協会会報」が再刊されました。
3月28日、協会再建20周年記念の第17回「俳優祭」を歌舞伎座で開催。水谷八重子(初代)らによる『浜松屋』と、大顔合せの『絵本太功記』十段目、若手による『文屋』。

【名題資格試験を実施 昭和52年(1977年)】

4月、第9回名題資格試験を実施、6名を合格と認め、名題適任証を授与。

【第18回「俳優祭」 昭和53年(1978年)】

10月27日、第18回「俳優祭」を歌舞伎座にて開催。豪華顔合わせによる『六歌仙』と『滑稽俄安宅新関』。

【事務局の移転 昭和54年(1979年)】

新橋演舞場改築のため、協会事務所を松竹会館に移転。同時に再建以来22年間事務局長を勤めた土岐雄志郎が退職し、事務局体制が一新されました。
11月3日、歌右衛門会長が文化勲章を受賞。歌舞伎界では六代目菊五郎、初代吉右衛門に次ぐ三人目の栄誉。

【「歌舞伎講座」昭和55年(1980年)】

7月26日、国立劇場で第1回「歌舞伎講座」開催。第1部は俳優自身による演技と解説で「実践的歌舞伎入門」、第二部は鴈治郎・仁左衛門・又五郎・芝翫らの貴重な芸談が聴かれた座談会、第三部は初代中村吉右衛門の記録映画『熊谷陣屋』鑑賞という構成で、好評でした。
第19回「俳優祭」は10月28日歌舞伎座で『あやめ浴衣』、『俄獅子』に大切は天地会『道行旅路の花聟』でした。
11月、中村勘三郎理事が文化勲章受賞。

【第2回「歌舞伎講座」と第20回「俳優祭」 昭和56年(1981年)】

4月、第10回名題資格試験を実施、10名を合格と認め、名題適任証を授与。
7月26日、第2回「歌舞伎講座」を国立劇場で開催。テーマは「女形の芸術」。渡辺保氏の講演「女形とは」、実演と解説「女形の芸術」―舞楽から歌舞伎まで」(武智鉄二、富十郎、吉村雄輝、観世銕之丞氏ほか)、最後は座談会「女形芸談―歌右衛門に聞く」というプログラム。
10月28日、ホテル・ニューオータニで第20回「俳優祭」を開催。20回という一区切り、久々にホテルの大宴会場にスターの模擬店がズラリ。特設舞台では東宝ゆかた会による演奏、仁左衛門・秀太郎父子の義太夫やゲーム、クイズと盛り沢山の構成。永年功労者の表彰も行われました。  11月、松本幸四郎(白鸚)常任理事が文化勲章受賞。

【第21回「俳優祭」 昭和57年(1982年)】

6月、(一)仕事中の災害の予防と補償の制度化について、(二)出演者交通費の支給規準の改正について、の二点に関する要望書を松竹と国立劇場に提出し、名題下俳優の優遇のために交通費の支給枠が拡大されました。
10月29日、歌舞伎座で第21回「俳優祭」開催。舞台は若手花形による歌舞伎版『夏の夜の夢』と、大幹部総出演の『乗合船恵方萬歳』。幕間縁日は「江戸穐祭賑」と題し、歌舞伎座全館お祭り気分でした。

【第22回「俳優祭」 昭和58年(1983年)】

6月、第11回名題資格試験を実施、6名を合格と認め、名題適任証を授与。
8月、松竹(株)に「興行日数についての要望書」を提出。
10月28日、歌舞伎座で第22回「俳優祭」。お馴染「たぬき会」に始まり、花形若手の舞踊『月の巻・花の巻』、熱気溢れる幕間模擬店、好評再演の『白雪姫』。

【歌舞伎界にもビデオ時代の波 昭和59年(1984年)】

2月20日、東京会館で歌右衛門会長が新劇団協議会の千田是也会長、日本俳優連合の森繁久彌理事長と三者会談。ニューメディア時代を前に俳優の権利を守るための結束など、共通の諸問題に対し同一歩調をとって対処することを確認しました。
10月29日、第23回「俳優祭」を歌舞伎座で開催。協会幹部が揃った舞踊『雨舎り』、闇魔大王の前で珍芸奇芸が繰り広げられる『俄戯作地獄珍関』など。
12月、2年がかりで調査していた海賊版ビデオを摘発。テレビの舞台中継を無断で複製して販売していたもので、歌右衛門会長はじめ猿之助、菊五郎、海老蔵(團十郎)、孝夫(仁左衛門)、玉三郎ら人気俳優が自らの権利を守るため立ち上がったとして、新聞にも大々的にとり上げられました。

【「全日本子どものための舞台芸術大祭典」と芸術祭40回記念祝典 昭和60年(1985年)】

この年は歌舞伎界挙げての12代目團十郎襲名の大イベントのため「俳優祭」はお休み。
5月、松竹(株)・歌舞伎座と共同して、歌舞伎座裏にとんぼ道場を再建。
代りに8月に佐渡で聞催された「全日本子どものための舞台芸術大祭典」に歌右衛門会長の『隅田川』を、10月に芸術祭40回記念祝典に『今様須磨の写絵』(歌右衛門、扇雀、辰之助、福助)を、それぞれ委嘱され制作。

【第24回「俳優祭」 昭和61年(1986年)】

1月、第12回名題資格試験を実施、5名を合格と認め、名題適任証を授与。
4月27日、歌舞伎座で第24回「俳優祭」。『若菜摘』『雁金』『越後獅子』の舞踊三題に、久々の天地会『花競夢助六』。
11月、定款の一部を改正が認可され、会員の著作隣接権の処理に関する業務を行うことが明記されました。これに伴い「著作隣接権の処理に関する規約」を設け、協会が会員等から委任を受けて権利処理を行う体制を整えました。同時に著作隣接権委員会と、福利厚生基金の活用プランを検討する福祉委員会準備委員会が発足しました。

【国立劇場と協定書を締結 昭和62年(1987年)】

3月、日本俳優協会は創立30周年を迎えました。
3月28日、尾上辰之助理事が夭逝。
5月24日歌舞伎座で通常総会が聞かれ、62・3年度役員改選。会長に中村歌右衛門、副会長に尾上梅幸と尾上松緑、専務理事に市村羽左衛門、財務理事に中村又五郎、常任理事に中村芝翫・中村雀右衛門・菅原謙次、理事には市川猿之助・市川團十郎・尾上菊五郎・片岡我當・河原崎権十郎・中村吉右衛門・中村扇雀・中村富十郎・中村福助・坂東彦三郎・松本幸四郎・水谷良重が新たに就任。監事には中村勘三郎・片岡仁左衛門・實川延若。
7月、国立劇場との間に公演記録用の録音・録画物に関する「協定書」を締結、8月1日より発効。併行して、松竹(株)との間にも同趣旨の協定についての話し合いを申し入れ。
11月、尾上松緑副会長が文化勲章受賞。

【第25回「俳優祭」 昭和63年(1988年)】

この年、歌舞伎座百年。
3月29日、日本俳優協会再建設立30周年記念・第25回「俳優祭」を歌舞伎座で開催。
4月16日、中村勘三郎(十七代目)がご逝去。
4月に松竹(株)との間で、舞台の録音録画等に関する協定書を締結
5月に『歌舞伎を支える技術者名鑑』を刊行。昭和54年から5年余の調査を続け、大は大道具から小は人毛まで、歌舞伎に必要なあらゆる技術を調査し、その仕事の内容と技術者972名を紹介した初めての名鑑である。

III. 平成編

衛星放送やCS放送、CATVなどがはじまり、さらにインターネット時代が到来するという急速な技術革新とメディアの多様化の時代を迎え、協会の権利処理システムも活発化してきました。その一方で日本俳優協会賞を創設し、2001年にはインターネット歌舞伎公式ホームページを開設。同時に「かぶき手帖」を毎年刊行するなど、歌舞伎普及事業にも積極的に取り組みはじめました。2001年は、歌右衛門名誉会長と羽左衛門会長が相次いで亡くなり、世代交代が確実に進んだ年でもありました。

III-1. 平成の歩み

【昭和64年=平成元年(1989年)】

二代目尾上松緑

1月7日、昭和天皇崩御。元号を「平成」と改める。
6月25日、尾上松緑(二代目)副会長ご逝去。
10月28日、歌舞伎座にて第26回「俳優祭」を開催。宝塚の「ベルサイユのバラ」のパロディ版『佛國宮殿薔薇譚』などを上演。

【平成2年(1990)】

3月、芸術文化振興基金が設立され、国立劇場が〈基金部〉を含めた日本芸術文化振興会に組織換えされました。
8月に第13回名題資格試験を実施し、7名を合格と認め、名題適任証を授与。

【平成3年(1991)】

4月、文化庁芸術インターンシップ(国内研修)制度が発足。
12月、会員の著作隣接権・肖像権使用料を個人分配するため、分配計算方式を決定。会員のランクと在籍年数をもとにした「持ち点」制を導入し、増えつつある映像や写真のビデオ商品化や二次的な利用に対応して、コンピュータによる分配処理体制を確立。

【平成4年(1992)】

3月28日、歌舞伎座にて第27回俳優祭。
山路ふみ子さんよりのご寄付を受け「山路ふみ子歌舞伎育成基金」を創設。
10月1日、日本放送協会(NHK)との間に「実演の再利用についての覚書」を締結。
11月28日、協会事務所を築地二丁目に移転。
このころより〈歌舞伎ブーム〉起こる
通信衛星(CS)によるテレビ放送開始。松竹(株)も衛星映画演劇放送株式会社を設立し、「衛星劇場」チャンネルをスタートさせた。

【平成5年(1993)】

2月、大阪東ライオンズクラブよりご寄付を受ける。この寄付金をもとに5月大阪中座において第一回「歌舞伎奨励賞」授与式を行う。
著作権法の改正により、6月から私的録音補償金制度がスタート。
8月、歌舞伎公演の急激な増加で、6月には同時に7公演が行われるに至った。このため、俳優やスタッフの過労と稽古不足の問題について、松竹(株)と国立劇場に要望書を提出。
9月に『歌舞伎に携わる演奏家名鑑』を刊行。昭和63年から4年以上かけて、歌舞伎音楽(長唄・鳴物・竹本・清元・常磐津・新内・河東・三曲)の演奏家を調査した報告書。
12月に、コンピュータを使った新しい著作隣接権・肖像権使用料分配システムによる第1回の分配を実施。
10月、芸団協著作隣接権センター発足。

【平成6年(1994)】

1月に第14回名題資格試験を実施し、9名を合格と認め、名題適任証を授与。
3月26日、片岡仁左衛門(十三代目)顧問がご逝去。
5月26日、歌舞伎座にて第28回俳優祭を開催。
11月に松竹(株)との間で「地方公演における食費補金支給に関する覚書」を締結。12月の南座顔見世から実施。大阪新歌舞伎座、御園座、中日劇場とも同様の覚書を締結。

【平成7年(1995)】

この年、松竹創立百年。
1月、阪神淡路大震災。本協会も救援のためのチャリティーサイン会を歌舞伎座・国立劇場・新橋演舞場などで開催。3月8日には日生劇場で「坂東玉三郎チャリティーオークション」を開催。
2月、大震災の教訓を生かすため、日本演劇興行協会と日本芸術文化振興会(国立劇場)に対し、劇場設備の安全性の再点検を要請。
3月24日、尾上梅幸副会長ご逝去。

七代目尾上梅幸

5月の総会で副会長に市村羽左衛門、専務理事に中村又五郎、財務理事に中村雀右衛門を、それぞれ選任。
5月28日、歌舞伎座にて第29回俳優祭を開催。阪神淡路大震災救援チャリティー・オークションを開催。
第一回日本俳優協会賞の授与式を「俳優祭」昼の部で実施。
歌舞伎CD-ROM『デジタル歌舞伎エンサイクロペディア』がアスキーから発売される。初めてデジタル・マルチメディアの権利処理を行う。
10月1日、文化庁芸術祭50回を記念し、国立劇場において『平成七年度(第五十回記念)芸術祭祝典』を制作。天皇・皇后両陛下をお迎えし、記念公演として能『石橋』、三曲『御山獅子』、坂東玉三郎による『京鹿子娘道成寺』を上演。
10月16日、名古屋御園座創立百周年記念『俳優まつり』を企画制作。
10月26日、中村歌右衛門会長に「高松宮記念・世界文化賞」が授与される。
12月、芸団協芸能文化情報センター発足。

【平成8年(1996)】

喜びの歌右衛門(自宅にて)

5月24日、第二回日本俳優協会賞の授与式を歌舞伎座で挙行。
7月に歌舞伎座事業株式会社との間で、歌舞伎俳優の芸名・サイン・家紋を使った商品販売に関する覚書を締結。
芸団協芸能文化情報センターと文化庁、公文協が協力して、芸術家・芸術団体と公立文化施設と文化行政を結ぶデータベースのネットワーク「地域文化情報システム」がスタートし、本協会も歌舞伎俳優のデータベースを提供公開。
10月、中村歌右衛門会長に勲一等瑞宝章が授与される。

【平成9年(1997)】

1月、新たに会員の医療費補助制度と、稽古費用補助制度を開始。
2月、歌舞伎座ブロマイド販売につき、写真家および歌舞伎座事業(株)との間に、新たにルールを取り決め。
3月、松竹(株)との間でCS放送「伝統文化放送」に関する「覚書」と「合意書」を締結。
5月28日、第30回俳優祭を歌舞伎座で開催。
「俳優祭」昼の部で第三回日本俳優協会賞の授与式を行う。
5月30日の通常総会で副会長に羽左衛門と雀右衛門、専務理事に中村芝翫、財務理事に市川團十郎が選任された。
6月1日、伝統文化放送が本放送を開始。
6月18日、著作権法の一部改正により、実演家に「送信可能化権」が与えられる。インターネットの普及と技術革新により、放送と通信との垣根がなくなることへの対応。
6月18日、芸団協通常総会で中村歌右衛門が名誉会長に退き、新会長に野村萬蔵氏が選出される。
8月、歌舞伎俳優の写真を無断で掲載した写真集を発売した株式会社リブロポートと、編集プロダクション、写真家を肖像権侵害で東京地方裁判所に提訴。
10月、新国立劇場開場。
「歌舞伎ポストカード」発売。
12月、歌舞伎座と協力し、とんぼ道場の全面的改修工事を実施。
12月、芸団協より『芸能白書1997 数字に見る日本の芸能』刊行される。本協会は歌舞伎・能・文楽・商業演劇の公演データの収集・集計と分析を担当。

【平成10年(1998)】

1月、歌舞伎座とんぼ道場の改修工事完了による道場開きを開催
2月、松竹(株)・(株)衛星劇場と交わしている「衛星(CS)放送に関する基本契約書」を更改。
3月、NHK衛星放送局と覚書を締結。
3月、4年ぶりに第15回名題資格審査を実施し25名を名題適任と認め、4月に適任証を授与。
5月18日、大阪松竹座にて第4回日本俳優協会賞の授与式。
12月、歌舞伎写真の無断使用出版事件の訴訟が調停により解決。被告らは肖像権侵害を認めて原告である俳優に陳謝し、解決金を支払うとともに書籍を廃棄処分に。

【平成11年(1999)】

4月1日、坂東三津五郎監事(九代目)ご逝去。
5月26日、歌舞伎座にて第5回日本俳優協会賞の授与式が行われた
5月2日、通常総会で中村歌右衛門会長が名誉会長に退き、市村羽左衛門が会長に就任。中村芝翫が雀右衛門とともに副会長に、中村鴈治郎が専務理事に、それぞれ就任。財務理事は市川團十郎が再任された。

十七代目市村羽左衛門

5月、芸団協より『芸能白書1999 数字に見る日本の芸能』刊行される。本協会は歌舞伎の公演データの収集・集計と分析を担当。
6月、東京日本橋三越にて「六世中村歌右衛門展」が開催され、本協会も全面的に協力。
6月、芸団協通常総会にて中村鴈治郎が理事に選出される。
9月、台湾大震災救援チャリティー・サイン会を歌舞伎座で開催。
11月、演劇出版社との間で、会員等の写真の使用に関する覚書書を締結。
12月24日、菅原謙次常任理事ご逝去。

【平成12年(2000)】

1月、第16回名題資格審査を実施し、13名を名題適任と認め、3月に適任証を授与。
3月、『歌舞伎の舞台技術と技術者たち』を刊行。昭和63年に刊行した『歌舞伎を支える技術者たち』の全面的増補改訂版で、前回は取り上げられなかった三味線や邦楽器に関する技術も網羅。八木書店から発売。
3月、放送大学学園と歌舞伎等の映像・写真の放送番組への使用に関する契約書を締結。
5月16日、第6回日本俳優協会賞の授与式を歌舞伎座にて挙行。
5月27日、歌舞伎座にて第31回俳優祭を開催。
6月、歌舞伎会員の健康調査を実施。

III-2. 新しい世紀

【平成13年(2001)】

中村雀右衛門

1月1日、インターネット歌舞伎公式ホームページ「歌舞伎 on the web」を開設(SSコミュニケーションズ、キャラバンとの共同事業)。
1月2日、『かぶき手帖』2001年版を初めて刊行(伝統歌舞伎保存会・松竹(株)との共同編集・発行)。
1月13日、澤村宗十郎理事(九代目)がご逝去。
2月、中央省庁再編により文部省と科学技術庁が文部科学省となる。
2月、本協会財務理事の市川團十郎が新たに発足した文化審議会の委員に就任。
3月31日、中村歌右衛門名誉会長がご逝去。
6月20日、第7回日本俳優協会賞の授与式を歌舞伎座にて挙行。
7月8日、市村羽左衛門会長がご逝去。中村雀右衛門副会長が会長代行に就任。
11月、日本放送協会(NHK)との間で『実演の再利用に関する覚書』を全面的に改訂、締結。BS、ハイビジョン、デジタル放送など新技術によるメディアの展開に対応。
11月、芸団協より『芸能白書2001 数字に見る日本の芸能』刊行される。本協会は歌舞伎の1996~1999までの公演データの収集・集計と分析を担当。
12月、文化芸術振興基本法が発布される。

【平成14年(2002)】

1月、『かぶき手帖』2002年版を刊行(伝統歌舞伎保存会・松竹(株)との共同編集・発行。SSコミュニケーションズ発売)。
4月1日、中村雀右衛門会長代行、正式に会長に就任。
4月28日、第32回俳優祭を歌舞伎座で開催。
6月12日、歌舞伎座にて第8回日本俳優協会賞の授与式を挙行。
6月、著作権法が一部改正され「実演家の人格権」が創設される
7月、政府が文化芸術振興の基本方針を策定するためのヒアリングに本協会として意見を述べる。
7月 日本芸術文化振興会(国立劇場)との間で、インターネットを使って学校等へ歌舞伎などの学習教材コンテンツを配信するための契約書を締結。

【平成15年(2003)】

この年、歌舞伎四百年を迎える。
1月2日、『かぶき手帖』2003年版を刊行(伝統歌舞伎保存会・松竹(株)との共同編集・発行。SSコミュニケーションズ発売)。
3月 NHKと「実演を部分的に録音・録画することに関する覚書(部分新撮に関する覚書)」を取り交わした。
3月 「歌舞伎ソフトの利用ガイドブック」を刊行し、出版・放送・コンテンツ制作関係者等に無料配布。
3月 日本芸術文化振興会(国立劇場)の伝統芸能情報館オープン。
4月 日本俳優協会の公式ホームぺージを開設。
4月 携帯電話の歌舞伎公式サイト「歌舞伎モバイル」が、NTTドコモの公式サイトとしてサービス開始。

NHK歳末たすけあい

5月 第45回通常総会にて、役員改選。中村勘三郎(当時・中村勘九郎)氏が新たに理事に就任。
5月23日 第9回日本俳優協会賞授賞式を挙行。
7~8月 伝統歌舞伎保存会主催「小学生のための歌舞伎体験教室」に協力。
10月26日 伝統歌舞伎保存会主催「第5回研修発表会」を後援。
10月27日 第17回名題試験を実施。12名が名題適任と認められ、12月、名題適任証を授与。
12月 歌舞伎座と国立劇場で、NHK歳末たすけあい協力のためのサイン色紙即売会を実施し、月末にNHKを通じて寄付。あわせて、新潟中越地震の被災地へ義援金を寄付。

【平成16年(2004)】

1月 NHKの外国向けニュースに主に栄誉顕彰、襲名披露、訃報などに関する報道に限り、歌舞伎の映像等を無償で使用することを許可。
4月27日 第33回「俳優祭」を歌舞伎座で開催。
5月1日 「かぶき手帖」2004年版を発行。
6月25日 第10回日本俳優協会賞授与式を歌舞伎座にて挙行。
7~8月 伝統歌舞伎保存会主催「小学生のための歌舞伎体験教室」に協力。
8月 フランスのベルエール社と、同社制作の歌舞伎紹介番組への歌舞伎映像使用に関する契約を取り交わした。
8月 芸団協が文化庁の委託を受け、実演家の肖像パブリシティ権に関する研究会を設置。肖像パブリシティ権の確率と法令化に向けて調査を開始した。
11月23日 伝統歌舞伎保存会主催「第6回研修発表会」を後援。
12月 シネマ歌舞伎「野田版・鼠小僧」の上映に関する覚書を締結。
12月 歌舞伎座、国立劇場にてサイン色紙即売会を実施。NHKを通じ国内・海外たすけあいへ寄付。

【平成17年(2005)】

2月 NHK地上デジタル「マルチ編成」での歌舞伎中継番組の使用に関する覚書を締結
3月 「かぶき手帖」2005年版を発行。
7~8月 伝統歌舞伎保存会主催「小学生のための歌舞伎体験教室」に協力。
8月 第11回日本俳優協会賞授与式を挙行。
8月 会員の歌舞伎以外の放送番組の部分利用の権利処理について、映像実演権利者合同機構(PRE)への委任を推進。
11月22日 伝統歌舞伎保存会主催「第7回研修発表会」を後援。

【平成18年(2006)】

1月2日 「「かぶき手帖」2006年版を発行。
1月 松竹シネマ歌舞伎「野田版研辰の討たれ」「鷺娘・日高川入相花王」上映に関するを締結
5月 歌舞伎座の改築に関するアンケートを会員に対して実施。
6月21日 歌舞伎座にて第12回日本俳優協会賞授与式を挙行。
7~8月 伝統歌舞伎保存会主催「小学生のための歌舞伎体験教室」に協力。
8月22日 ユネスコ「人類の口承および無形遺産の傑作」宣言書伝達式。

【平成19年(2007)】

1月2日 「「かぶき手帖」2007年版を発行。
4月27日 第18回名題資格審査を実施。15名を名題適任と認め、5月に適任証を授与。
5月26日 歌舞伎座にて、第34回俳優祭を開催。
5月26日 第13回日本俳優協会賞授与式を「俳優祭」にて挙行。併せて「永年功労者表彰」を挙行。
7月 能登半島地震災害被災地に義援金を寄付
7~8月 伝統歌舞伎保存会主催「小学生のための歌舞伎体験教室」に協力。

【平成20年(2008)】

中村芝翫

1月2日 「かぶき手帖」2008年版を発行。
5月 伝統歌舞伎保存会から『戦後歌舞伎の俳優たち』を刊行。
5月23日 第50回通常総会にて、中村芝翫副会長が会長に就任。
7月10日 大阪松竹座にて、第14回日本俳優協会賞授与式を挙行。
7~8月 伝統歌舞伎保存会主催「小学生のための歌舞伎体験教室」に協力
8月 松竹歌舞伎検定公式テキスト発売に関する権利処理を行う。
12月 歌舞伎座にて歳末たすけあい協力のためのサイン会を開催。22日にNHKへ寄付金を持参。 NHKオンデマンド(インターネット番組配信サービス)開始。

【平成21年(2009)】

1月2日 来年4月、改築のために休場となる歌舞伎座の「さよなら公演」開幕。
1月2日 「かぶき手帖」2009年版を発行。
4月27日 歌舞伎座にて、第35回俳優祭を開催。
5月21日 第51回通常総会開催。新理事に中村芝雀、中村時蔵、坂東三津五郎の三氏が就任。中村雀右衛門名誉会長が顧問に就任。澤村田之助理事が退任。
6月 伝統歌舞伎保存会会長に中村芝翫氏が就任。
6月22日 芸団協の総会にて、芸能人年金制度の廃止が決定。
6月26日 歌舞伎座貴賓室にて、第15回日本俳優協会賞授与式を挙行。
6月26日 松竹(株)と歌舞伎座改築に関する意見交換会を実施。
7月1日 歌舞伎公式ホームページ「歌舞伎 on the web」がプレオープン。
7~8月 伝統歌舞伎保存会主催「小学生のための歌舞伎体験教室」に協力。
10月 役職の内、幹事を廃止し、評議員を改選。
10月 日本芸術文化振興会が国立劇場に保存している「長谷川昇・役者絵」を図録刊行。肖像権を処理。
10月 新型インフルエンザが流行。対応について会員へ警鐘。
10月 松竹(株)刊行の「写真集 歌舞伎座」に関する覚書を締結。
10月 「歌舞伎モバイル」の松竹移管にともない、新たに松竹(株)と覚書を締結。
12月 評議員を中心とした歌舞伎座改築対策プロジェクトが本格的に始動。

【平成22年(2010)】

1月1日 「歌舞伎 on the web」正式オープン
1月2日 「かぶき手帖」2010年版を発行。
4月27日 歌舞伎座にて、第16回日本俳優協会賞授与式を挙行。
4月30日 改築のため、歌舞伎座が休場。
6月 伝統歌舞伎保存会から『歌舞伎音楽演奏家名鑑-昭和二十年から現代まで-』を刊行。
6月10日 ユネスコ「無形文化遺産保護条約に関する代表一覧表記載」認定書伝達式。
10月28日 歌舞伎座(五代目)起工式

【平成23年(2011)】

坂田藤十郎

1月2日 「かぶき手帖」2011年版を発行。
1月3日 中村富十郎理事ご逝去。
3月11日 東日本大震災発生。震災の影響で国立劇場3月公演が15日以降中止、新橋演舞場公演も11・12・17・18日の4日間中止される。
4月5日 松竹(株)と(株)歌舞伎座が五代目歌舞伎座の外観デザインを発表。
4月7日 東日本大震災義援金をNHKに寄付。
6月21日 新橋演舞場にて、第17回日本俳優協会賞授与式を挙行。
7月1日 東日本大震災義援金口座を開設。
7月29日 新橋演舞場にて、「東日本大震災復興支援 歌舞伎チャリティー公演」が開催される。
7~8月 伝統歌舞伎保存会主催「小学生のための歌舞伎体験教室」に協力。
10月10日 中村芝翫会長がご逝去。坂田藤十郎副会長が会長代行に就任。

【平成24年(2012)】

尾上菊五郎

1月21日 伝統歌舞伎保存会主催「第8回研修発表会」を後援。
1月28日 国立劇場にて、東日本大震災復興支援第36回俳優祭を開催。
2月23日 中村雀右衛門顧問がご逝去。
3月19日 東日本大震災義援金を岩手県・宮城県・福島県に寄付。
3月21日 東日本大震災義援金口座の取り扱いを終了。内閣総理大臣から公益社団法人の認定書を受け取る。
3月23日 伝統歌舞伎保存会主催「第9回研修発表会」を後援。
4月1日 公益社団法人に移行し、坂田藤十郎が会長、尾上菊五郎が理事長(代表理事)に就任。「かぶき手帖」2012年版を発行。
4月18日 伝統歌舞伎保存会主催「第10回研修発表会」を後援。
7月1日 東日本大震災義援金口座の取り扱いを再開。
7~8月 伝統歌舞伎保存会主催「小学生のための歌舞伎体験教室」に協力。
8月27日 第19回名題資格審査(筆記試験)を実施。
9月26日 第19回名題資格審査(実技試験)を実施。18名を名題適任と認め、10月に適任証を授与。
11月16日 新橋演舞場にて、第18回日本俳優協会賞授与式を挙行。
12月 伝統歌舞伎保存会から『平成24年版 歌舞伎に携わる演奏家名鑑』を刊行。
12月5日 中村勘三郎(十八代目)理事がご逝去。
12月15日 伝統歌舞伎保存会主催「第11回研修発表会」を後援。

【平成25年(2013)】

2月3日 市川團十郎(十二代目)専務理事がご逝去。
3月17日 中村吉右衛門常任理事が専務理事に、松本幸四郎理事が常任理事に就任。
3月30日 東日本大震災義援金口座の取り扱いを終了。
4月2日 第五期歌舞伎座が新開場。「かぶき手帖」2013年版を発行。
7~8月 伝統歌舞伎保存会主催「小学生のための歌舞伎体験教室」に協力。
11月11日 歌舞伎座にて、第19回日本俳優協会賞表彰式を挙行。
12月14日 伝統歌舞伎保存会主催「第12回研修発表会」を後援。

【平成26年(2014)】

1月18日 伝統歌舞伎保存会主催「第13回研修発表会」を後援。
3月27日 歌舞伎座にて、第37回俳優祭を開催。新開場された歌舞伎座で初の開催。
4月2日 「かぶき手帖」2014年版を発行。
5月24日 第56回社員総会開催。中村翫雀、中村又五郎が新理事に就任。市川段四郎理事が退任し参与に就任。
7~8月 伝統歌舞伎保存会主催「小学生のための歌舞伎体験教室」に協力。
8月26日 第20回名題資格審査(筆記試験)を実施。
9月27日 第20回名題資格審査(実技試験)を実施。22名を名題適任と認め、11月に適任証を授与。
10月25日 伝統歌舞伎保存会主催「第14回研修発表会」を後援。

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